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2012.01.21付 釜石復興新聞より

森 重隆

森 重隆

ラグビーの奥深さ まちの復興にきっと役立つ

ラグビーのワールドカップ(W杯)が釜石に来る— この夢を、具体的な目標としてとらえられる人は、今はまだ、少ないと思う。一日も早く、かつての生活を取り戻そうと奮闘されている方はなおさらだ。 かつて、釜石で初めてラグビーの国際試合が実現したことがあった。1981年、私がまだ現役で30歳の時、ニュージーランドの強豪、ポンソンビーが遠征してきた。創立107年の名門は、オークランド州の覇者として来日し、オールブラックスで活躍するブライアン・ウイリアムスらを擁していた。芝のグラウンドで試合をするため、普段、練習している土の松倉ではなく、わざわざ上中島の原っぱを整備した。そこにポールと仮設のスタンドを立て、2、3千人は集まったと記憶している。関東代表なども大敗した相手だったが、13対19と善戦し、何とか日本王者の面目を保った。懐かしい思い出だ。当時、釜石の街には外国人が泊まれそうなホテルは1軒しかなかった。残念なことだが、そのホテルも今回の津波で被害を受けた。 東日本大震災後、国内のチームは既に釜石を訪れてくれた。来年には、外国チームを招く計画もあると聞く。復興する街をより多くの方に見てもらうのは悪いことではない。そういう意味では一つのチャンスに成り得る。 もちろん、私が経験したポンソンビー戦と「世界三大スポーツ」と言われるラグビーW杯は比較するレベルではない。それでも、8年後、立ち直った釜石の姿を世界に披露でき、市民が一人でも多くの外国人と交流できることは、30年前の試合より、はるかに意味を持つだろう。 私は22歳から30歳までの社会人駆け出し時代を釜石で過ごした。なぜか、居心地がよかった。ラグビーが強い時期に重なったということではない。今でもその理由をふと自らに問い直すことがある。 大学3年の終わりごろ、新日鉄から勧誘を受け、「わかりました、お世話になります」とすぐに返事をした。その時、けがもありレギュラーではなかったが、釜石の先輩が「試合に出てないが、いい選手がいる」と釜石のラグビー部長に推薦してくれていた。4年になり、日本代表候補になると、他企業からも誘いはあったが、既に心は決まっていた。当時の釜石ラグビー部は大学卒の選手一人を2年に一度、高校卒の選手3人を毎年採用していた。 一定の基準があったから、部は磨けば光る原石を一生懸命リクルートし、無名の高校生を日本代表まで育て上げることができた。 福岡生まれの私に、釜石の寒さは想像を絶した。冬になるとすべての木の葉が落ちる。そんな光景は見たことがなかった。山火事になったと本当に思い込んでいた。風呂の栓を抜き忘れ、遠征から帰るとお湯が凍っていたこともあった。 初めの3年間、独身寮に住んだ。大学卒と高校卒で分かれていたが、ラグビー部員が多い高卒寮に入った。同じ寮費なのに待遇が違い、考えさせられることもあった。結婚してからは、夫婦喧嘩は午後8時以降と決めていた。ちょうど8時前に花巻へ行く最終列車が出る。それが、出発すると、街から出ていく手段はなかった。嫁は今でも当時、一緒に子育てしていた奥様たちと4年に一度再会している。彼女にとっても、忘れられない土地になっているのだろう。 入社当時、釜石のラグビー熱はそれほど高いとは思えなかった。「ラグビーは何人でやるスポーツ?」という感じで、新日鉄のスポーツ部の一つという感じだった。野球部は名門で、プロ野球阪急で活躍された山田久志さんも以前、在籍された。野球部員は昼で仕事から上がり、ラグビー部員は通常業務。ラグビーは長時間練習するものではないが、仕事優先だったことで、結構、職場では愛された。 7連覇の最初の年(1979年)は、釜石に戻っても「はい、ご苦労様」。そんな感じで終わりだった。連覇して初めて駅で祝賀式があり、市内をパレードしたのは、4連覇の時からではないか。私が現役最後となった4連覇までと、7連覇した頃の市民の関心度は全然、違っていた。ラグビーで街の活性化をという意識は4連覇の後、倍々で規模が膨れていくように感じた。 今、思えば、釜石があれだけ有名になり、東京の国立競技場にも満員の観衆が押し寄せるラグビーブームを迎えた時、日本ラグビー協会を中心に、次はどうしようか、と深く考えなかったことが残念でならない。 私が大学生の時、初めて早明戦が国立競技場で行われた。そのあたりから観客が増えてきた。学生が強かったのも大きかっただろうか。そこへ、東北の小さな街で鍛えたチームが1年に一度、成人式の日に国立を埋め尽くし、大漁旗の後押しを受けて日本一になる。いかにも日本人好みの釜石というチームが現れた。この人気を維持するためにどういう手を打つか。漠然と、しばらくブームが続くとみてしまったのだろう。会社もそうだが、衰退していく典型的なパターンに陥ってしまったように感じてならない。 W杯の日本開催まで残り7年余り。逆に言えば、それまでにラグビーブームを再び呼び戻すことは不可能ではない。関係者の総力を結集し、アジアで初めて開かれる楕円球の祭典を、最高の形で迎えられれば、と願っている。 その一番の近道は、日本代表が強くなることだが、W杯でのこれまでの戦いぶりは決して満足できるものではなかった。どうして、こうなったのか。こちらも、反省をしてこなかったからではないか。今回の大会だけでなく、この20年ぐらいをもっと掘り下げてほしい。誰が悪いということではない。どうしようもなかったこともあるだろう。しかし、それを整理しないと、同じことが繰り返される。もうじき、日本代表の新体制が発足するだろうが、色々な角度からの敗因分析は棚上げにならないことを願っている。 今回、外国選手がこんなに多くていいのか、という議論があった。私は最初に人数論ではなく、まず、日本代表がどう戦っていくのかを考え、そのために、これだけの外国選手が必要という順序にならなければと思っていた。 どんなチームを作るのか、という絵を描かなければ始まらない。そこから、練習方法も構築されていくだろう。今、世界の練習はニュージーランドを筆頭に似たり寄ったり。日本が世界で戦っていくには、何を強くして、そのためにはこういう練習をしなければならない。それを突き詰めていくと、練習から日本流に変わっていくと思っている。 4年に一度の祭典には、勝敗もさることながら、各代表チームがどれほど特色あるラグビーを世界へ発信できるかの競争でもある。 釜石への大会誘致が実現すれば、その一コマに直接、触れることができることになる。 家業を継ぐこともあり福岡へ戻った後、母校のラグビー部監督を任された。始めは、福岡高のグラウンドへ遊びに行くと、「走り方はこうだ」など、後輩につい言いたくなっていた。ゴルフと一緒で「そのスイングこうしろ」とかいう程度だった。そうこうしていると、面白くなり、週末に結構、グラウンドへ通うようになった。ある時、OB会から監督を要請され、仕事も忙しいので断っていたが、結局、1995年に就任した。 普通、60歳にもなると、16、17歳の青年と話すことはなかなかない。実はこれが面白いし、自分も若返る。経験を伝えていくのも、一つの生き方と思っている。 高校の監督の責任は、高校生活最後の試合で、選手をどれだけ満足させてあげられるか、だと感じている。 「青春のすべてを燃やした」と選手が言い切れる試合をさせてやれるかに尽きる。監督に就任して以来、県予選の2、3回戦で負けた年もあるが、後輩たちは最高のゲームをしてきてくれていた。どんなに力量差があっても勝つ気でいく。負ければ納得はいかないが、「よくやった」というのがあった。各年代、それぞれあきらめなかった。 その積み重ねが、去年、28年ぶりの全国大会出場につながったのだろう。 今年は残念なシーズンになってしまった。全国大会県予選の準決勝で東福岡に0対73で敗れた。点差ではない。「こいつがいくから、俺が助けてやろう」ラグビーは信頼関係で成り立つスポーツだ。そういうことを今年の3年生には教えてあげられず、歯痒かった。最後の試合の前、肩の脱臼癖があるキャプテンが「肩がなくなってもやる」と宣言した。私もホロリときた。 しかし、試合ではその気持ちについていけない選手が何人かいた。そこが崩れたら、ラグビーではなくなる。太い信頼関係で成り立っているチームは強い。今回のW杯、決勝でフランスがニュージーランドに1点差に迫れたのも、フランスに善戦できた日本がニュージーランドに完敗したのも、根っこはそういう部分だろう。選手に伝え切れなかった自分の限界を少し感じた。 高校の監督は本当に大変だ。ラグビーの技術より、人間として育てなければならない部分がある。5月に釜石を訪れた時、出来ることなら後輩たちを連れてきて支援活動をやらせたい、と思った。現場へ行かなければわからないことがあるし、被災状況を目の当たりにすれば、人生にもラグビーにもマイナスになることはない。 その時、津波で自宅を失った人から「もっとひどいところがある。うちは平気」と気丈に言われた。粘り強くて優しい気質は私がいた頃と、全く変わってなかった。 そんな釜石で、人生が変わるほどいろんな方々と出会えた。それはラグビーをやっていたからこそだ。スポーツそれぞれの良さはあるけれど、ラグビー経験者には「あいつがやるなら、俺も負けずに」と考える人が多い。 突き詰めると、苦しい時、いかに互いを信頼して踏ん張れるか、が問われているスポーツだと思う。歳を重ねると、なぜか「ラグビーをやっていた」と言えば、学校や会社など関係なく打ち解けて話せるのもそのためだろう。 釜石でのW杯開催を実現するには、交通アクセスや宿泊施設など現実的にクリアしなければならない課題は多い。これからの7年余りで釜石市民をはじめそれぞれの意識がどう変わっていくかも重要になるだろう。その中で、ラグビーが持つ競技にとどまらない奥深さは、巨大スポーツイベント誘致だけでなく、私を育ててくれた街の復興にきっと役立つと信じている。 (インタビュー・構成/三笠杉彦、森田博志)

森 重隆さん 略歴

もり・しげたか 1951年福岡県出身。中学時代はバレーボールに親しみ、福岡高へ進学後、ラグビーと出会う。2年から全国大会に出場し、3年時にはベスト8。抜群のスピードを持つバックスで、明大では1年から公式戦に出場した。けがもあり、しばらく正選手から遠のいたが、4年の春にニュージーランド遠征した際、本場でそのプレーが絶賛され再び注目された。 74年に新日鉄釜石入りし、79年からの7年連続日本一のうち4連覇までを支え、最後の年はプレーイングマネジャー。社会人になり日本代表に選ばれ、79年、3点差で惜敗したイングランド戦(花園)で主将を務めるなど27キャップ。168センチと小柄で、外国選手になめられてはいけないと口髭をはやし「ヒゲ森」としても親しまれた。引退後は福岡へ戻り、家業の森硝子店を継いで92年から社長。95年から福岡高ラグビー部監督。2006年に全国高校選抜大会に初出場し、10年には37回目の全国大会出場で古豪復活を印象付けた。