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2011.11.02付 釜石復興新聞より

松瀬 学

“一緒に”。NZを歩き、釡石W杯を夢見て~W杯ニュージーランド大会紀行

ラグビーのワールドカップ(W杯)をご存知か。じつはただいま、南半球のラグビー王国、ニュージーランドで開催されている。
私は、そのNZを旅して回っている。9月頭からだから、ざっと二ヶ月となる勘定である。世界の最高レベルのラグビーの闘いを取材し、NZの大自然の不思議に触れ、毎晩のごとく酒場で様ざまな国の人とビールを酌み交わし、生きる喜びを実感しているのだ。

NZの人は総じて、やさしい。レンタカーであちこち回っている。恥をさらせば、じつは2度、車の照明を消し忘れてバッテリーが上がり、整備士にきてもらった。笑顔で「ジャンプ・スタート」をしてくれた。
もうW杯の取材は、1987年第一回大会から7大会連続となった。毎回、借金を背負って開催地を訪ねる。文句なしでオモシロい。日本では認知度が低いけれど、4年に一度のラグビーW杯はオリンピック、サッカーW杯と並び、 「世界三大スポーツ」の一つなのだ。観客動員がざっと200万人、世界42億人がテレビ観戦するというビッグ・イベントである。
三大スポーツイベントはどれも取材しているけれど、ラグビーW杯が一番、人情にあふれていると思っている。NZ大会でいえば、オークランドなど国内11の開催地がラグビー一色となる。ほとんど市民主導で盛り上がり、毎日、盆と正月とクリスマスが一度にきたようなお祭り騒ぎとなる。酔っ払いは多少いるけれど、サッカーと違い、喧嘩なんて一度も見たことない。なぜか笑顔、笑顔、笑顔。
峻厳なる闘いを満喫し、夜は酒場で試合談義に花が咲き、各国のファンたちと文化の交流が進むのだ。そのラグビーW杯が8年後、つまり2019年に日本にやってくる。これまたあまり知られていないけれど、ラグビーの伝統8カ国(イングランド、スコットランド、ウェールズ、アイルランド、フランス、NZ、南アフリカ、オーストラリア)以外での開催では史上初となる。すなわちラグビー界にとっては画期的な、いやチャレンジングなW杯となるのだ。
いい時代に生まれた、とつくづく思う。自国でラグビーW杯が開かれる。半面、ラグビー人気が低迷している日本で大丈夫かな、との不安もある。経済的な成否はともかく、海外の人々やラグビー愛好者が日本にやってきて良き思い出をつくってくれるかどうか、開催地のホスピタリティは万全となるかどうか、ひとりで気を揉んでいる。
W杯の長所とは、「WIN&WIN」の関係だと思う。つまりは、来訪者も開催地もハッピーになるのである。W杯の準々決勝が終わったあと、わたしはウェリントンから車で日本×カナダ(9月27日・23-23の引き分け)の開催地、ネイピアをふたたび、訪ねた。

なぜかといえば、居心地がとてもよかったからである。NZの北島の東側、海浜リゾート地のこの街はワインと製紙業で知られ、日本のティッシュペーパーのブランド名「ネイピア」の由来の地でもある。
人口が釜石とほぼ同じ、約5万5千人。キレイな海岸線もまた、三陸をほうふつさせる。中心部には、波や日の出などの装飾を壁に施したアール・デコ様式の建築物があふれている。1931年、この地域は大地震で壊滅的な打撃を受けた。約10年をかけ、行政と市民が一体となって、計画的な街づくりがおこなわれ、再生した。「奇跡の復興」と呼ばれている。
観光も盛んだ。『アール・デコ・ビンテージ・ツアーズ』の案内役、齢70(推定)のグラハム・ホリーさんは言う。
「このあたりは地震でむちゃくちゃになった。多くの人が命を落とした。でも生き残った人たちはくじけなかった。ベリー・ストロング・ピープルだった。精神的なつらさに打ち勝ち、こんなステキな街をつくったのだ」
日本が試合をしたスタジアム『マクレーン・パーク』も海岸沿いにあり、スタンドは1万6千人収容とこじんまりとしている。観客席からフィールドが近い。記者席からは海の水平線がみえた。こんなスタジアムが、釜石にできないものか。
街を歩けば、もう日本は1次リーグで敗退したというのに、店舗のショーウインドウに日の丸が飾ってあった。こちらが日本人だと分かると、「日本はいいチームだった」「日本のラグビーこそ、将来のスタイルだ」なんて、声をかけられる。そして、最後に「キア・カハ!」とくる。マオリの言葉で、「一緒にがんばろう」「強く生きよう」の意味である。

こんかいのネイピア再訪では、W杯開催の効果を少し調べてみた。街のボランティアが330人。地域の共通の目標ができることで、市民のつながりができた。とくに子どもたちとおじいちゃん、おばあちゃんたちの仲がよくなった。そう説明して、W杯会場主任のピーター・ムーニーさんは胸を突き出した。
正直に言えば、私はお酒が好きである。ワインも嫌いではない。そこで「ワイナリー・ツアー」なる半日ツアーにひとりで参加した。4箇所のワイナリーを回り、テイスティングと称して、たらふくワインを飲んだ。
ガイドの60歳(推定)のビンス・ピコーンさんはイタリア系の快活な御仁。酔っ払ったついでに、W杯開催のメリットを聞いた。
一気呵成にしゃべる、しゃべる。10分間は話し続けた。要約すれば。
「Together(一緒に)だな。地域の人々が一緒になる。いろんな国の人がこの街にやってきた。文化が一緒になる。観光だって、試合観戦だって、ビジネスだって、みんな活発になった。なんといっても、人々が一緒になるんだ。それがいい」
私も酔っ払って、詳しくは忘れたけれど、W杯のときにネイピアに観戦にきた人が帰国して、ネイピアのことを周囲の人々にPRしてくれる、それが一番のメリットだ。そんなことを言っていた。W杯はあくまで契機にすぎない。地域の人のつながりだろうが、各国の認知だろうが、様ざまな価値観の融合だろうが、いっしょくたになって、つまりは「Together(一緒に)」なるのである。
翻ってみれば、なにかと日本は互いのコミュニケーションが疎遠になっている。子どもたちはテレビゲームや携帯電話とばかりに向き合い、人との会話を忘れている。それはダメだろう。地域再生とまではいかないまでも、村祭りで一緒に神輿を担ぐが如く、W杯開催が世代間の交流、いや「人と人」のつながりの復権のきっかけになるのではないか、と考えるのだった。

釜石である。
ネイピアの街を歩きながら、将来、釜石がこういう風になればいいな、と思った。
「北の鉄人」。釜石は僕らのヒーローだった。「燃える高炉」の真紅のジャージィ。なんだか美しく、尊厳に満ちていた。
1970年代。来日したウェールズを見て、ラグビーのとりことなった九州の中学生にとって、ウェールズの「強さ」と「柔軟さ」は、新日鉄釜石ラグビーにつながったのである。ジャージィの色も一緒。頑強なFWと、15人で走り回る自由な(そう見えた)ラグビーは無限の可能性を感じさせた。
当時の日記をみれば、「トウキョー」と「カマイシ」の文字が頻繁に出てくる。おそらく、どちらにも憧れを抱いていたにちがいない。とくに私にとってのスーパーヒーローは、雄弁な松尾雄治さんではなく、屋台骨の右プロップ、故・洞口孝治さんであり、寡黙な左プロップの石山次郎さんであった。
たしか早稲田大学3年のとき、西東京・東伏見に新日鉄釜石の方々がやってきた。練習試合をさせてもらったと思う。監督の大西鐵之祐さんが新日鉄釜石FWと談笑しているとき、わたしは直立不動で立っていた。わたしのポジションはプロップ。スクラムを組ませてもらったかどうか、なぜか記憶にない。
大学卒業後、共同通信社の運動部記者となり、初めて釜石を訪ねたとき、「遠いところだな」と感じた。新日鉄の工場がでんとあるものの、失礼ながら、「とんでもない田舎だな」と思った。秋の終わり頃だったと記憶しているのだが、猛々しい風がふき、からだの芯まで凍りついた気がする。
あの憧れのFWは、この厳寒の地でスクラムを組んでいたのだ。鍛錬を積み、自由に走り回る脚力を培っていたのだ。そんなことを考えながら、土のグラウンドでいつまでも走り続ける練習をながめていた。
目を閉じれば、ばい煙のにおい、魚のにおいが、鼻の穴の奥に残っている。釜石の人々はやさしく、取材をさっと終わらせると、たのしい酒場に連れて行ってくれた。チームの深みは人だな、とひとりごちた。

その後、何度か釜石に足を運んだ。だが正直に言えば、低迷し、クラブチームの「釜石シーウェイブス(SW)」となってからは、ほとんど釜石にはいっていなかった。
私にとって、釜石とは、遠い昔の青春時代のごとく、切なく美しい思い出の地となっていたのだった。その地を震災が襲った。大津波が街を押し流した。
凄惨なテレビの画像をみて、「飛んでいかなくては」と思った。説明不能。なぜだかわからない。悲しいジャーナリストの性かもしれない。いやブリキ缶に大事に納めていた子ども時代の「宝物」を拾いにいくような衝動だったかもしれない。
もう、いてもたってもいられなかった。新幹線はもちろん、JRもストップしていた。震災から10日後、深夜バスで東京から9時間をかけて盛岡にいき、一日借り上げたタクシーで二時間半をかけて釜石に入った。
旧知の増田久士さんが釜石SWの事務局長をしていた。同じプロップだった高橋善幸さんがゼネラルマネジャーとして、復旧、復興の先頭に立っていた。わたしは「縁」と「人」を大事に生きているつもりだ。これは縁だ、神様が震災後の釜石を記録せよ、と言っているのだと思った。
何度も釜石に通った。増田さんから紹介してもらった民宿「コスモス」で様ざまな人と酒を酌み交わし、そのご主人の藤井了さん、ご夫人のお話をうかがった。何につけても、人生の先輩の方の体験談は興味深い。
藤井さんのお陰で、釜石漁業の「顔」である岩切潤さんを紹介してもらった。ラグビー関係者だけでなく、漁師の方々の話も聞くことができた。「鉄と魚とラグビー」の復興ドキュメントとして形になった。もちろん、釜石復旧のほんの断片にすぎない。

『負げねっすよ、釜石』というタイトルで光文社から出版されることになった(10月18日発売・収入の半分は釜石SWに寄付させていただきます)。本の最後の一行はこう、書かせてもらった。
<釜石には夢と大漁旗がある。>と。
夢のひとつが、釜石の復旧・復興であり、釜石魂と文化の継承である。2019年W杯の釜石開催である。そう信じている。

松瀬 学さん 略歴

まつせ・まなぶ 1960年長崎県出身。早稲田大学ではラグビー部で活躍。83年、同大卒業後、共同通信社に入社。運動部記者として、プロ野球、大相撲、オリンピックなどの取材を担当。96年から4年間はニューヨーク支局に勤務。2002年に同社退社後、ノンフィクションライターに転身。人物モノ、五輪モノを得意とする。著書に『汚れた金メダル-中国ドーピング疑惑を追う』(文藝春秋=ミズノスポーツライター賞受賞)、『五輪ボイコット-幻のモスクワ、28年目の証言』『早稲田ラグビー再生プロジェクト』(ともに新潮社)、『サムライ・ハート上野由岐子』(集英社)、『スクラム-駆け引きと勝負の謎を解く』(光文社新書)、『匠道-イチローのグラブ、松井のバットを創る職人達』(講談社)、『武骨なカッパ 藤本隆宏』(ワニプラス)、『ラグビーガールズ-楕円球に恋して』(小学館)など多数。