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活動報告

2020.03.25

洞口留伊さん/特別インタビュー

スクラム釜石が、東日本大震災とニュージーランド・カンタベリー大地震の翌年、2012年2月に初開催、以後毎年3月に開催してきた「東北&クライストチャーチ復興祈念チャリティイベント」は、2020年の今回は、新型コロナウィルスの感染拡大に伴い残念ながら中止となりました。

参加を予定されていたみなさんにはお詫び申し上げますとともに、次回、無事開催できた暁にはぜひともご参加いただき、東北&クライストチャーチの復興へお力をお貸しいただければ幸いです。

今回は残念ながらみなさまとご一緒することはできませんでしたが、代替企画として、当日、ゲストとしてご登壇いただく予定だった洞口留伊さんの特別インタビューをお届けします。2018年8月、釜石鵜住居復興スタジアムのオープニングDAYで「キックオフ宣言」を読み上げた留伊さんは震災当時、ワールドカップ会場となった釜石鵜住居スタジアムの場所にあった鵜住居小学校の3年生でした。

洞口さんはこの春、釜石高校を卒業し、防災を学ぶために大学へ進学。上京した際に(コロナ対策は慎重に施した上で)インタビューさせていただきました。
どうぞ、お読みください。

――留伊さんは小学3年のときに被災して、中学生と一緒に避難して助かったのですね。
「私たちは最初、屋上に避難したのですが、そのときにはもう隣の中学生たちは高台に向かって避難を始めていて、それを見た先生たちが『私たちも逃げなきゃ』と呼びかけて、すぐに降りて逃げました。それまでも中学生と合同で避難訓練をしていたし、中学生のみなさんが手をつないで逃げてくれました。

 避難訓練でいつも逃げていた高台まで逃げたけれど、土砂崩れが起きて、先生が「ここも危ない、もっと上へ逃げよう」と言って、恋の峠の石材店のところまで逃げました。そこから、開通したばかりの高速道路(三陸道)まで土手をよじ登って、ちょうど通りかかったトラックに乗せてもらって、市内の旧一中の避難所に運んでもらいました」

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――家族にはいつ会えたのですか。避難所にはどれだけいたのですか。
「母と弟には、旧一中の避難所でその日のうちに会えましたが、父にはなかなか会えませんでした。ただ、父が働いていたのは内陸だったので、そんなに心配はしていませんでした。『山の方に逃げているだろう』と話していました。

旧一中の避難所には結局1週間くらいいて、それから甲子(かっし)小の体育館の避難所に移ったところに、父が探しに来てくれて会えました。旧一中では口に入れられたのはおせんべいと水くらいでしたが、甲子小に移ったら炊き出しがあって、震災のあと初めておにぎりや温かい食べ物をいただきました。旧一中では段ボールにくるまって、隣の人と身体を寄せ合って寒さをしのいでいましたが、甲子小では初めて毛布をもらえた。それまで当たり前だと思っていたことがどれだけ大切なのかを知りました。

6月になって、小川(こがわ)町の仮設住宅が当たって、家族で引っ越しました。でも、周りにどんな人が住んでいるのか分からないし、子供も少なくて、遊ぶ相手もいませんでした。鵜住居小のともだちも、家が無事な人は家に戻ったし、おばあちゃんの家へ移った人もいて、それぞれの小学校に通っていました。内陸の親戚の家へ避難した人もいたりして、誰がどこへ行ったとかは全然分かりませんでした。

5年生のとき、鵜住居小の仮設校舎ができてからは、小川町の仮設住宅からスクールバスで鵜住居へ通ったけれど、学校から帰ると近所には遊ぶ友達もいなかった。6年生のとき、小川から鵜住居の日向(ひなた)地区の仮設へ引っ越して、中学3年までそこで過ごしました。中学校は3年間、ずっと釜石東中の仮設校舎に通いました。ちょうど卒業するときに今の新しい校舎ができて、私たちは一度も入らなかったけれど、先生たちに「卒業式はどっちでやる?」と聞かれました。でも新しい校舎には何の思い出もないし、仮設校舎は取り壊されると知っていたけれど、私たちが3年間通った、思い出のたくさんある校舎のほうがいいねとみんなで話して、仮設校舎で卒業式をしました」

――釜石でラグビーワールドカップが開かれるというお話は、留伊さんはいつ頃から聞いていたのですか?
「私がワールドカップのことを知ったのは、本当に、釜石で開かれることが決まってからです。それまでいろいろな人に助けていただいていたので、ワールドカップが決まったときに、その感謝を伝える機会ができたと思いました。日本国内の方には、感謝の手紙を書く機会があったんですが、世界の方に感謝の気持ちを届ける機会はなかなかなかった。ワールドカップで世界の方々が釜石に来てくれたら、感謝の気持ちを伝えることができる。そう思って、ワールドカップにどんな形でもいいから携わりたい、大会成功のお手伝いをしたいと思って、ロータリークラブが募集した国際交流事業に応募しました」
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――ワールドカップの釜石開催が決まったときは何年生でしたか?
「開催が決まったのは中1の終わりでした。中2のときにロータリークラブの募集があって、その9月にワールドカップの視察へ行って、イングランド大会の日本対スコットランド戦を現地で見ました。それが生まれて初めて見たラグビーの試合でした」

――ラグビーはそれまで見たことがなかったのですね。どんな印象でしたか。
「釜石のラグビーが強かったというのは知っていたけれど、実際のラグビーは見たこともやったこともなかったし、ルールも分からなかった。鵜住居小にはラグビースクールに通っている子もいなかったと思います。

 私たちが見たスコットランド戦は、日本は負けてしまったけれど、町中が盛り上がっていたところ、サポーターが敵味方関係なく相手をたたえていたところ、終わったら一緒にゴミ拾いをしていたところに感動しました。特に印象的だったのは、現地の方が私たちに『津波は大丈夫?』と心配してくれたことです。その頃は震災から4年半が過ぎて、日本国内でも震災のことが風化していると感じていたので、世界の人が東日本大震災の被災地に気持ちを寄せてくれていたことが嬉しかった。そのとき、4年後のワールドカップでは釜石から世界に向けて感謝を伝えたい、伝えなきゃいけないという使命感を覚えました」

――実際に、ワールドカップに向けてはどんな活動をしたのですか。
「ワールドカップではボランティアとして大会が成功するようにお手伝いしたいと思っていたのですが、実際に応募しようと思ったら、高校生は公式ボランティアができないということでした。2015年のワールドカップを見に行って、4年後は世界の人たちに感謝を伝えようと誓ったのに、私は無力なのかな? とそのときは思いました。

でも、これじゃ終われないなと思って、高校生でもできることはないかと考えて、思いついたのがSNSを使うことでした。組織委員会の方とお話ししたときに『釜石市の人口の半分くらいの人が押し寄せることになる。混雑が心配だね』と言われているのを聞いて、実際のルートを事前に見ることができるように、釜石駅から三鉄に乗って鵜住居駅で降りて、スタジアムまで歩く画像を撮ってyoutubeにあげたんです。実際に、ワールドカップの前、7月の日本対フィジーのときには『みなさんが作ってくれた映像を見ていたから、迷わないでスタジアムまで来れました』と何人もの方に言っていただきました。

 ワールドカップ本番の時も、釜石だからできることは何かと考えました。そして、このスタジアムは私たちの学校があった場所だということを活かしたいと思い『防災を伝える』ことをテーマにしようと決めました。せっかく釜石に来てくれるのだから、その人たちに防災の大切さを伝えたい。でもワールドカップに来る人はみんな、ラグビーがメインだし、何分も立ち止まらせるわけにはいかない。だから、2分間で伝えきれるように原稿を書きました。それを英訳して、英語の得意な子に添削してもらって、2分で話し終えるように何度も練習して本番に備えました。私は日本語の係でしたが(笑)、話を聞いて涙を流してお礼をいってくださった方もいたし、帰ったら防災グッズをそろえるねと言ってくれた方もいました。最初は、自分たちは無力だと思ったけれど、ワールドカップという機会に、微力だけど何かできたかなと思っています」

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――改めて、ワールドカップはどんな経験でしたか。
「ワールドカップのスタジアムができると聞いたとき、最初は『私たちが通った学校が取り壊されるのはイヤだな、寂しいな』と思ったんです。でも実際にワールドカップの日が来たら、鵜住居では見たことのないくらいたくさんの人がやってきた。その賑やかさに、私は本当に『学校みたい』と思ったんです。ワールドカップを通じて、新しい人と出会うこともできたし、ラグビーだけでなく、地域が復活することができて、本当に良かった」

――コロナウィルスが蔓延して、9年前とは違う意味でみんなつらい、寂しい思いをしています。いま、学校へ通えていない子供たちに伝えたいメッセージがあればお願いします。
「私たちも9年前は学校へ通えず、友達とも会えない毎日を過ごしました。そのときは家もない、テレビもない、スマホもない。情報が何も入ってこなかった。でも、私はそれをきっかけに、自分を見つめなおすことができました。今、学校へ行けない、友達ともなかなか遊べない子供たちも、当たり前の日常の大切さを改めて感じてくれたらいいなと思います。
そう思う反面、今回はコロナの流行が3・11に重なってしまったことで、毎年開いていた追悼式も中止になってしまった。メディアでも被災地を取り上げることが少なくなってしまって、ますます風化していってしまうのかな、こうして防災の意識も薄れていってしまうのかなと感じました。そういう意味でも、私たちが震災と防災を語り継いでいかなきゃいけないということに、改めて気づけた年だったんだなと感じています」

私たちスクラム釜石は「ラグビーを通じた東北復興」を掲げて活動してきました。留伊さんへのインタビューは、震災から9年を経て、私たちが想像した以上に若い世代は頼もしく、たくましく育っていたんだな、完全復興への道のりはまだまだ長いけれど、この若者たちと一緒なら、きっと完全復興できるなと思わせてもらえる時間でした。
来年、コロナウイルスとの戦いに勝ち、平穏を取り戻し、また東北&クライストチャーチ復興祈念チャリティイベントを開催できる日を楽しみにしております。

2020年3月 スクラム釜石(聞き手・大友信彦・三笠広介)

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